【中島輝士の野球人生】恩師たちが導いた野手転向の軌跡
中島輝士の野球人生を支えた恩師たちの存在と、彼が野手転向を決意した背景を紹介。

高校からプロには行かず、私は1981年から社会人野球のプリンスホテルに投手として入団しました。しかし、順風満帆の野球人生とは程遠い現実が待ち受けていました。プロ野球からのドラフト解禁年となる3年目に右肩鎖関節下の静脈に血行障害を発症し、4か月の療養を余儀なくされました。手術をしても2年間は投球不能と診断され、野球人生そのものが終わるかもしれないという瀬戸際に立たされました。
プロからの誘いをあえて断って社会人に進んだ私にとって、この故障は大きな試練でした。母の希望もあり、安定した道を選んだ私でしたが、故障により母に心配をかけてしまっているのではないかと心が痛みました。同級生の高知商の中西清起は社会人の同じ地区のリッカーで主投手として活躍し、83年の秋にはドラフトで阪神に1位指名され、プロの道へと進んでいきました。それに比べれば自分はまだまだだと感じていました。
そんな私を救ってくれたのは、社会人時代の恩師たちでした。入部した当時の助監督である石山建一さんは「中島を残してやってほしい」と野球部に掛け合ってくれました。また、野球部監督に就任していた稲葉誠治さんに相談したところ、「1年だけ野手をやってみろ」と言われました。石山さん、稲葉さんという2人の恩師が私の野球人としての道を守ってくれたのです。
石山さんは私が1年目だった81年途中に、都市対抗予選敗退の責任を取って辞任されました。投手育成の手腕に定評のあった稲葉さんの下、プリンスホテルは83年から2年連続で東京地区第1代表で都市対抗野球に出場しました。その稲葉さんの助言もあって84年からは、野手転向を目指すことになります。当時の社会人野球はまだDH制ではなく、投手が打席に立っていました。私は登板した試合の打席では結構、打っていた印象もあったと思います。投手出身の稲葉監督ですから、投手陣の様子をよく見てくれていたんだと思います。
当時の稲葉監督は66歳でした。周りには「じっちゃん」と言われていましたね。慶大の投手として東京六大学リーグの優勝を2度、経験しています。56年には慶大監督に就任し、同年秋にリーグ優勝。60年から社会人の日通浦和の監督を務め、64年の都市対抗で優勝です。そういった実績を認められてプリンスホテルに招へいされてきたわけです。チームの編成面と采配に関しては助監督となっていた石山さんに任せていたイメージですね。
社会人時代は2人の恩師に見守られ、野手・中島輝士が誕生することになりました。