熊野輝光氏の壮絶な選択:プロ野球への道を断ち切った決断
熊野輝光氏が大学時代にヤクルトからの指名を拒否し、自身の進路を選んだ背景について迫る。

熊野輝光氏の選択と葛藤
1979年、熊野輝光氏は大学野球の舞台で輝かしい成績を収めていた。彼は中大で全試合出場を果たし、主将としてチームを引っ張るなど、その実力は周囲に認められていた。しかし、ドラフトでヤクルトからの3位指名を受けたとき、熊野氏はプロへの道を拒否するという思い切った決断を下した。
高校時代のライバルとの比較
高校時代のライバルである杉村繁内野手の苦悩も、熊野氏の決断に影を落としていた。杉村はドラフト1位でプロ入りしたが、思うような成績を残せず苦しむ姿を見て、熊野氏は自らの力不足を痛感した。しかし、熊野氏は打撃に自信が持てず、特に3年、4年と成績が下降していく中で、プロ入りに対する不安が募った。
ヤクルト監督からの強引な勧誘
ヤクルトの武上四郎監督は強引なアプローチを行い、「明日から神宮の近くにアパートを借りて、練習に出て来い」と促してきた。この発言は熊野氏の心に不快感を与え、彼は「何言っているんだ、そんな自信はない」と返事せざるを得なかった。この経験が、かえって彼をプロ拒否の道へと導いてしまった。
自己を見つめ直す時期
熊野氏は、プロ入りを前に自らの力を冷静に見極めることができたことは、結果的に良い決断だったと言える。彼は日本楽器(現ヤマハ)に入社し、その後も外野手として活躍した。野球への情熱を持ち続けながら、自分自身と向き合う時間を大切にしたのだ。
熊野輝光氏の決断は、単なる一つの選択と言えるが、彼の豊かな経験と内面の葛藤が浮き彫りになる興味深いエピソードである。