井原正巳のサッカー人生:中学時代のワンマンFWから日本代表までの軌跡
井原正巳の中学時代から日本代表までのサッカー人生を振り返る。ワンマンFWとしての活躍や、全国大会への挑戦、そして代表入りまでの道のりを詳しく紹介。

中学時代のサッカーへの情熱
井原正巳は1980年4月、水口町立水口中学校に進学し、ますますサッカーにのめり込んでいきました。当時の水口中学校は10クラスのマンモス校で、サッカー部も1学年20~30人と大所帯でした。1年生の頃は体格の差からボール拾いとランニングが中心でしたが、時々1年生だけの練習があり、その時は思いっきりボールを蹴ることができました。
レギュラーFWとしての活躍
3年生が受験に備えて夏で引退し、新チームになると、井原はFWのレギュラーになりました。一緒に全小に出場した1学年上の先輩が何人かいたことも心強かったです。2年生の時には滋賀県大会で優勝し、近畿大会に出場しました。しかし、全国中学校大会(全中)には出場できず、悔しい思いをしました。
強豪校としての名声
水口中学校は近畿地区では強豪として知られるようになり、井原もゴールを数多く決めて、名前が知られるようになりました。当時はWMシステムで、井原はインナー、今でいうシャドーのような位置でプレーしていました。ボールを早く触りたいので、中盤まで下がってパスをもらい、そこからドリブルで前に運んでいくスタイルでした。
高校進学への決意
中学3年生の夏で一区切りをつけ、その後も自主練を続けながら、どこの高校へ行こうか考えていました。井原は守山高校を第1志望としていました。前年夏の高校総体で4強入りし、「強いところで全国を目指したい」と思っていたからです。家族も「お前が行きたいところに行っていいぞ」と言ってくれたので、井原の決意は揺るがないものになりました。
日本代表への道
井原正巳は守山高校から筑波大学を経て、横浜Mの前身である日産に入団しました。その後、磐田と浦和でもプレーし、アジアの壁と言われるほど強固なディフェンスで知られるようになりました。大学2年生の時に日本代表入りを果たし、ドーハの悲劇とジョホールバルの歓喜を経験しました。1998年にはW杯フランス大会に主将として出場し、代表通算122試合を数えました。
引退後の活躍
引退後は北京五輪代表コーチ、柏コーチ、福岡監督、柏監督を務め、現在は解説者として活躍しています。2025年6月にはU―20Jリーグ選抜監督も務め、7月からは韓国2部・水原コーチに就任しました。